COSYDESIGN Inc.

全ての方に、CI・ロゴデザインの専門家が創る本物のクオリティを!

グラフィックデザイナー48歳。これまでを振り返る。 その4

date / 2020.10.10(sat)

category / COSYDAYS

7,195 ビュー views

グラフィックデザイナー48歳。これまでを振り返る。 その4

フリーランスのデザイナーとして独立。

2001年1月5日、フリーのデザイナーとしてのスタートを切ったのですが、その時準備したことは、100万円の貯金だけでとりあえず6畳の和室、6畳の洋室と6畳のダイニングのある安い部屋を借りました。場所は城東区緑橋駅前。当時は回線が遅くて、今のようにデザイン案や資料のやり取りをメールで送ることは難しく、打ち合わせや納品はクライアントまで出向かなければ仕事にならなかったので、大阪市内への交通の利便性の良い場所で、尚且つ家賃が安く広い物件という条件で見つけました。それから、今は亡き祖母からの援助で新しいMacを購入。確かPowerMac G4だったかな。生活に必要な家電類は広島に転勤していた時に使っていたものでなんとか凌ぎました。
↓独立したてのオフィス環境。モニタがブラウン管!

 

 

 

仕事をする上で必要な物といえば、Mac本体(G4)とディスプレイ(20インチ)、スキャナー、外付けMOドライブ、A3対応のインクジェットプリンター、FAX電話、ADSLのインターネット回線、データのやり取りに使用するMOディスクと、CD-Rなど。当時の仕事の仕方は、電話で依頼があり、クライアントに出向いて打ち合わせ。資料などをもらって帰ってデザイン作業。上がったデザインカンプをまずFAXで送り、それに赤を入れてもらってFAXでチェックバックをもらう。修正したカラーカンプとデータをMOディスクに入れて、クライアントまで出向いて納品するといった感じ。MOディスクは640MBとか、320MBとかだったと思います。

独立すると決めた時、勤めていた会社からお仕事をいただけるととても助かるとは思いつつも、辞めた社員に仕事を出すのは3年後くらいからでないと発注するのは難しい…。と当時の支店長に言われていたこともあって、あてにしていてはいけないと思っていたのですが、たまたま東京本社から社長が来られていてトイレで一緒になった時、「独立するんだって?これからも大阪支店をよろしく頼むよ。支店長には私からよく言っておくから。」と言ってくれたんですね。この一言が本当に嬉しかったし6年間この会社で頑張ってきて良かったなと思いました。そして、会社に辞めることを伝えてから実際に辞めるまで、1年という時間があったことも、円満退社できた大きな要因だったと思います。

社長の一言があったお陰で、独立してすぐから、待ってましたとばかりに営業、企画、デザイン部門全ての部署から声をかけていただだけ、他の会社に営業をかける暇がないほどフル回転の日々でした。
月の売上は、翌々月末振り込みが主流だったため、2ヶ月先まで収入が無いということもあり、1ヶ月目から忙しくないと絶対にやっていけないという、結構無謀なスタートだったのですが、お陰様で本当に助かりました。
そんなこんなで、会社員時代の印刷関係の取引先などからも声をかけていただくことが増えたり、紹介などで仕事は増える一方で、1日24時間、土曜も日曜も含めてスケジューリングしていました。一人暮らしだったので、3度のご飯と寝るとき以外は全て仕事漬けといった感じ。それでも、グラフィックデザイナーの仕事以外にキャラクターイラストを描く個人活動も始めていて、仕事の合間を縫って作家活動もしていました。この活動が唯一の息抜きになっていたと思います。年に1〜2回個展をしたり、イラストレーターさんや作家さんたちと一緒にグループ展に参加したり、堀江のアートハウスさんにポストカードなどのオリジナルグッズを置いていただいたりしていました。独立するにあたって、「苦労するのは当たり前!」「会社員時代の3倍は働かないと大成できない!」と自分に言い聞かせていたので、本当に良く働きました。一つひとつの仕事全てが経験になり成長できると思っていたし、仕事を選べるような立場ではないことも自覚していたので、短納期や、どんな仕事でも苦にはならなかったですね。

 

JAGDA大阪との最初の出会い

とりあえず順調過ぎるスタートを切った1年目が過ぎ、1年目の暮れに結婚しました。結婚を機にマンションを購入し、6畳の部屋を仕事部屋にして、そこに妻と机を並べていました。さらに、キャノンのPIXELという大型のレーザーコピー機も入れていて、座っている椅子を引くこともできない狭さでした。妻は前の会社のデザイン課で一緒だったので仕事への理解もあり、彼女自身が担当しているクライアントもあって、2年目からは二人で仕事漬けの毎日。本当に馬車馬のように働きました。僕の仕事の内容は前職のPOPなどのSPツールのデザインや、印刷会社の下請けでパンフレットやパッケージ、展示会のグラフィックなどが中心でした。代理店や印刷会社の下請けの仕事は大手企業の案件が多く、一見華やかな世界に見えますが、自分の実績としてサイトなどで公開できない案件が殆どなので、このままで良いのか疑問に思えてきました。そんな中、同世代のフリーのデザイナーさんのサイトをたまたま見つけ、そこに載っていたお仕事がとっても魅力的に見えたんです。そこには、BARのロゴやツール、クリエイター達による展覧会のためのポスター作品やグラフィックなど。グラフィックデザイナーを志した時に憧れていた仕事内容がそこにあったので、やっぱり自分もこういう仕事をしていきたい!と気づかされたんですね。
面識は当然なかったのですが、気がつけばメールを送っていました。
その宛先は、zest(ゼスト)のタニオカシゲキ氏で、この時送ったメールがきっかけでJAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)の企画展に参加しないか?と誘ってもらうことに。
法善寺横町が火事に見舞われた時で、再建中の仮囲いに法善寺横町をテーマにしたグラフィックを飾って応援しよう、というものでした。
僕なんかが参加しても大丈夫なんだろうか?不安しかない中、勇気を振り絞って申し込みをしたのを今でも昨日のことのように覚えています。本当にドキドキしながら申込のメールを送ったのでした。
↓この時作った作品がこれ。

 

 

この展覧会を通じてJAGDA大阪の会員のみなさんと知り合うことになり、凄いデザイナーさんが沢山いることを知り、自分は本当に井の中の蛙だったんだということに気づかされました。この時32歳くらいでしたが、JAGDA年鑑やタイポグラフィ年鑑、東京TDC年鑑などを読み漁り、トップで活躍しているデザイナーやその仕事を意識するようになりました。この中に自分は入っていけるのか、通用するのか?どう見ても雲の上の存在にしか見えない世界でしたが、どこまで行けるのか挑戦してみよう!!と決意したのでした。
↓この当時の事務所の年賀状デザイン。

 

 

次回は、マンションの仕事部屋から、小さな事務所を借りてからの話しに続きます。

グラフィックデザイナー48歳。これまでを振り返る。 その3 一覧へ戻る
まずはお気軽にご相談ください。